私の恋愛観について

私は恋愛に関しては、人と比べてかなり淡白というかあっさりしていると思う。

ラーメンで例えると塩味。コッテリ派な味噌や豚骨を頼んだ日には確実に胃もたれだ。

というか人に対する執着が中々薄い上に表面化されにくい…と自分では思う。人当たりは決して悪くはないのだが、そもそも本当の意味で人を好きになりづらいのだ。我ながら闇すぎる。

私自身、恋愛はゲームというか人生における所謂娯楽の1つとして見ているところがあるのも要因だろう。あった方が楽しいけど別に特別必須という訳ではない。結婚に関しても同様の意味に近い。何事も直球ストレート勝負な人がいるが、それを恋愛で発揮すると少々盛り上がりに欠けるというのが私の意見だ。

しかし、本当にその人が好きで付き合うということになれば多分死ぬまで愛すると思う。根拠になるかどうかは微妙だが、恋愛をテーマにした曲は重い歌詞が入ったものを好むことが多い。重い愛といっても種類は様々だが、みんなが僕らを祝福しているよとか世界で一番愛してるとかそういった陽気でメルヘンな光溢れる感じでは決してない。

君の愛は少しで、僕の愛は全てでと私は君と一緒ならI could die in this moment とか君がいない世界に生きていても意味がないとか常に死の香りが付き纏う退廃的な重い愛が大好きだしそんな愛を結局所望するのだ。いや、1番面倒くさいやつ!!!!

しかし、そこで問題に上がるのが脅威の蛙化現象だ。人を好きになりづらい挙句にいざ両思いになった途端蛙化するって一体何がしたいのだろうコイツと自分でも思うが、実はそこには最底辺レベルの自己肯定感のなさと何事にも縛られずに自由にいたいという潜在的な意識があるのではないか、と自分なりに分析結果が出ている。これなぁ~我ながらめちゃくちゃ面倒くさい性格をしていると思うが絶対に曲げたくない。頑固すぎわろた。でも、それが私の理想だから。私の美意識だから。私の価値観であり存在意義なんだよね。そこを否定されると死ぬから。自殺するのは中学時代で十分だ。

まぁここから仮面の話と関連するんだけど、要するに私にとっての恋愛ってとっても自由なものでありたいのだ。その奥底には素の自分を決して見せたくないというある意味恐怖心があるのかもしれない。でも、私はそれでも、それが例え偽りだとしても、その中だからこそ魅せられる美しさって絶対あると思うのよ。私には恋も友情も直球勝負!!な親友がいるのだが、彼女の持つものが素直が故に美しい恋愛だとするなら、私の持つのは着飾るが故に美しい恋愛だと定義することが出来るだろう。それで私はそれを使って恋愛で楽しみたいんです。偽りで良い。嘘でも良い。だって本当の私はそんな大層な人間じゃないし、親友の彼女のような勇気は生憎持ち合わせていないのだ。おそらく仮面の美しさ、理想を私は一生抱き背負って生きる。それはとても苦しいかもしれない。てか今現在苦しいんだけど。でも、それで良いのだ。それが良いのだ。それこそが私の思い描いた美しさなのだから。それこそが私が憧れてやまない理想なのだから。それこそが私の愛する私自身なのである。

そんな着飾る仮面で恋愛を楽しみたい私だが、結婚となれば話はまた変わってくるよね。当たり前じゃん。仮に結婚したら、否が応でも仮面を外さなければいけない場面も多々あるワケ。私からすればそれは普通に屈辱に近いんだけど、まぁ自分がそこまで信頼した相手なら良しとしましょう。でも、そうなってくると恋愛における軽さは残念ながら私はもう持ち合わせてない。ハッキリ言うと、ここまで知っといて逃げるなんて許さないかんな、貴様感が凄い。そこまで見といてそれはないだろ。それこそ歌詞にあるように死ぬまで愛すから、覚悟しろよって感じだ。絶対逃さないし私も逃げない。例えるならドロドロの毒沼もしくは底が見えない暗闇の深海に引き摺り込み、抱き合いながら2人で沈んでいく様な感覚。ここまで来たからには私の愛は「私の全てを理解し愛して欲しい」という重量級の愛に変化する。いや、自分でも重い自覚はあるのよ。でも死なば諸共って良く言うじゃん。そもそもお互い死ぬまで愛さなければそれは愛とは言えなくない?それ以外なんてただの遊びだ。浅瀬でチャプチャプしているようなものである。しかし、その感覚こそが一般的にいう恋愛なのではないかとふと思う。世間と自分との乖離は常日頃から痛感しているが、どうやらマジだったようである。私的には元々愛ってそもそも重いもの。それを気安く相手に与えるものじゃない。だから、本当にそーゆー人が出来た時にマグマのように貯めてとくものである。