馴れ合いその他諸々について

 

元々私は個人主義で世間一般で言うと協調性が無い方だ。

 

集団主義の日本においては非常に生きにくい。

 

そもそもみんな仲良くなんて無理だよ。

誰しも好き嫌いがあるに決まっている。

普段はみんなそれを必死で隠してるだけだ。

 

だから疲れる。

 

みんなに平等な社会をとほざいてきて幾年もの時が流れたが果たして人が差別や偏見をやめた瞬間がかつて存在しただろうか?

 

他人の目を気にせずに生きれたら一体どれだけの人救われる?

 

現実を見ずに綺麗な理想ばっかり言って何になるというのだろうか?

 

そもそも世界はそんなに優しくはないし、人は思ってるほど善性を持ち合わせてはいない。それでも全てを見捨てるほど残酷ではないけど。

 

本当の平等っていうのは存在しない。誰かが唱える平等は誰かにとっての不平等になっている。そうできているんだよ。

 

きっと人は分かり合えない。だって他人だもん。

 

私を含めた人間は矛盾を抱えためんどくさい有機体だ。

そもそも自分のこともまともにわからないのに他人の思考を全て読むなんて気持ち悪い。冷静に考えて、興味のない有機体の情報なんて誰がいる?ほとんど水分で出来た有機体が1日何をして何が好きで嫌いなんて微塵も興味がない。

 

だから馴れ合いなんていらないと思う。

コミュニケーションとはお互いを尊重しあい心地よく過ごすための潤滑油のようなもので話し手が求めているもしくは決めている会話の到達点があり、要はそこに向かって話を進めればよい。

穏やかな海を航海する白いヨットのように。もちろん海の様子は人によっては荒波だったりするだろうが。というか常に荒波を立ててみっともなく騒いでいる姿は見ていて見苦しいしからなるべく視界から消えて欲しい。私の理想的な世界にお前は必要ない。deleteキーお願いします。

 

話は逸れたがそこに好奇心や下心が入ってくると関係が発展するのだろう。

親友、恋人、パートナー、ライバル…無限に広がる枝みたいな関係性の数々。

今は多様性のある社会(自称)らしいからほかにも色々な関係性があると思うが人間関係なんてそんなものの繰り返しである。

 

潤滑油としての会話は確かに必要である。それがお互いの意思を尊重し、リスペクトすることに繋がるから。

だからこそコミュニティを作ることに対しての所謂同調圧力、強制的な雰囲気は反吐が出るほど嫌いだ。

そこに個人に対しての自由がないようにどうしても感じるし、そもそも偉そうに仕切っている奴らが好きじゃない。後者は完全に気質の問題だけどそれにしたってこの日本の出る杭を打つ風潮は正直どうかと思う。

 

どうしても異端児的な扱いを受ける考えをしていると自分でも思うがそれでも束縛されるのは嫌だし、みんなもっと自由に自分の主張をすれば良いと思う。その考えすらなく流されてるなら論外過ぎるが。はいお疲れさまでした。

というか意識的にしろ無意識的にしろ圧力をかけてくる人々はそもそも何に囚われているのだろうか?何に対しての強迫観念を赤の他人に押し付けているのか?冷静に考えたら普通に怖くね?